はじまりを刻む活版印刷所「尚榮堂」/金沢まちなかお店探訪
金沢中心市街地における“オフィス街”ともいえる上堤町。ビルが立ち並び自動車やバスが絶え間なく行きかう大通りから一本入った閑静な住宅街に、活版印刷所「尚榮堂(しょうえいどう)」はある。
地図上ではすぐ裏手のはずなのだけれど、順路?方角?によっては、行き止まりになったりもして、なぜかなかなか辿り着けない。私が方向音痴なだけなのか、はたまた時空が歪んでいるからなのかー‥。そんな妄想が頭に浮かんでしまうほどに「尚榮堂」は時が止まったような空間だ。

ひっそりと佇む金沢町家の軒下に、良い風合いに経年変化した、金属製の看板が控えめに上がっている(民家のような佇まいゆえ、この看板を見逃すとしばらく彷徨うことになる)。
「尚榮堂」の名は、金沢周辺の作家さんや個人店が出展する「春ららら市」のパンフレットで知った。ネットで検索しても、ホームページや口コミなどは出てこず、店舗情報は住所と電話番号だけだった。

私が初めて尚榮堂を訪れたのは、会社を辞めてからしばらくしてのこと。 それまでは会社員しか経験したことがなかったので、「出勤」というルーティンがない生活や、何の肩書もない自分が、おもりが付いていない風船のように軽く感じられ、ふわふわと、何だか落ち着かない気持ちで過ごしていた。
何はともあれ、フリーランスとして仕事をやっていくには「名刺」が必要だろうと思い立ち、歩いてお店を訪れたのだった(そして冒頭に戻る)。

インターフォンを押して、玄関の引き戸を少し開けると、網戸越しに一匹の猫がこちらを見上げている。すぐに奥から店主さんが出てきて猫を抱きかかえ、「どうぞ」と中に招き入れてくださった。
猫は「すみれちゃん」といって、人間に換算すると90歳近い“おばあちゃん猫”とのこと。のっそりと何歩か進んでは、空を見つめるようにフリーズし、またのっそりと動き始める。
「たぶん何をしようとしてたか忘れちゃって考えてる」と店主さん。自力では段差も乗り越えられないので、持ち上げてもらっていた。


店内を見渡すと、壁一面を極細のモザイク画のように埋め尽くす活字に、まずは圧倒される。
中央に鎮座する金属製の印刷機は、使い込まれて深い艶を放っている。お店の歴史や仕事のスタンスを、静かに物語っているようだった。


「初めてなんですが、名刺をお願いしたくて」と来店の意図を伝えると、名刺に入れたい内容を記入する申込用紙と、名刺のサンプル集を持ってきてくださった。パラパラめくっていると、金沢で名だたるフリーランスの方々の名刺がいくつも目に入ってくる。幸先が良い。

とりあえず、名前と連絡先を入れたシンプルなものにすることに。すると壁一面を埋め尽くす活字の中から、ものの数十秒で私の氏名の漢字を探して出し(この作業を「活字を拾う」というそうだ)、試しに刷って見せてくれた。

持ってきていただいた活字は錫と鉛の合金からできている方形柱状のもので、あたりまえながら、リアルな重さと質量がある。この“物質感”が、当時の私には何だかすごく嬉しかった。
紙はヘンプ混のものに。活版印刷特有の“押し感”と共に、自分の名がそこに印字されている。透けていきそうな存在感の自分に、輪郭を与えてもらったような感覚になり、この日私はやっと「フリーランス」になれた気がした。

刷り上げてもらった名刺が半年足らずでなくなったため、2回目の名刺印刷をお願いしに訪問した際に、謎めいている「尚榮堂」について、少しお話しをうかがわせていただくことにした。

尚榮堂は茨木さんご夫婦が二人で営む活版印刷所。名刺やハガキの印刷を専門として、奥さんの祖父の代から続いていて、お二人が3代目。詳しい創業年はわからないものの「この場所にきてからだけでも60年以上にはなる」とのこと。

ネットに情報がほとんど上がっていないのは「ずっと下請けの仕事をしていたから、一般の方には全く知られてなかったと思う」と妻の美佐子さん。
地元の大手印刷会社からの受託業務、いわば“ B to B ”がメインで「夜に営業の方が来られて、“明日の朝までに仕上げてほしい”という仕事も多かったし、お休みもあるようでないような生活だったかな」と当時を振り返る。


「私たちは、自分たちのことを“活版印刷屋”という風に意識したことはなくて、ただの“印刷屋”だと思っています。印刷といえば、昔は活版印刷が主流でしたから。
今は活版印刷といったら“押し感”というか、凹みが出ているものを皆さんイメージされるみたいですけど、昔はむしろ『凹ませないで』と言われていたくらい。だからペラペラの薄い紙にでも何にだって印刷してました。最近は逆に『凹ませてほしい』と皆さんおしゃるので、へぇ〜今の時代はそうなんだなぁと」


現在印刷業務の全てを担っている夫の佐富さん。元々全くの異業種ながら、結婚を期に奥さんの家業である活版印刷を継ぐことにしたという。当時の気持ちを尋ねると「特に…何も考えてなかったです」とご本人にとってはごく自然な流れだったよう。

「この人は何も知らないから始めちゃって、酷い目にあったのよね。私は親たちが休みなく働く姿を見ていたから“いやだな〜この仕事やりたくないな〜”とずっと思ってたの」と他人事のように話す奥さんとバランスが絶妙で可笑しい。


ちょっと意外だったのが、活版印刷は基本的に「立ち仕事」なのだそう。活字を拾って版を組み、印刷してまた活字を元の場所に戻すー‥この作業を繰り返してきると、確かに座っている間はない。「最初は、“ずっと立っている”ということがまずできなかった」と佐富さん。
そして一番の山場はやはり「活字を拾えるようになること」。部首やいろは順に並ぶ無数の活字の場所が頭に入っている必要があり、また「版」であるために文字は反転して並んでいるので、探し出す難易度はさらに高まる。
「たまに『自分で活字を拾ってみたい』というお客様がいらっしゃるのですけど、やってるうちに皆さん“酔って”しまわれるんですよ」。


活版印刷業務における信条は「パッと見て情報が目に入りやすいこと。絶対に間違えないこと。そしてできるだけ美しく」とだけ、簡潔に答えてくれた佐富さん。
「やはり名刺やハガキは情報を伝えるものなので、見やすくてわかりやすいことが一番大事。誤植しないというのも、下請け時代に鍛えられましたね。昔は基本的に“校正なし”の一発勝負の世界だったので」


そして印刷物はひら場に一枚ずつ広げて、なんと一晩かけて乾かすという(「一晩で乾けば良い方」とも。動画を二倍速視聴するこの時代にもはや新鮮ですらある時間感覚)


2020年のある日、仕事中に夫の佐富さんが突然倒れ、一時は生死の境を彷徨った。長時間にわたる手術が成功し一命を取り留めたものの、「もう仕事はできないだろう」とお店も畳むつもりで、印刷会社から受けていた仕事も断っていた。
そんなある日、「しおりを作って欲しい」というお客さんがふらりと訪れる。
「急ぐ仕事もできないし、難しい仕事もできないってお断りしようとしたのだけれど、それでもいいとおっしゃって。そうなると問題は、この人(佐富さん)が仕事できるかということ。仮死状態で行う大手術だったので、もう仕事のことなんてきれいさっぱり忘れてるんじゃないかと思ってたんだけど、やってみたら、やれたんですよね。頭というか手が覚えていたのかなぁ」

先述の「春ららら市」に声がかかり、出展するようになってから、一般のお客様が増え、今では尚榮堂を慕うクリエーターが様々なアイディアでグッズも作ってくれているという。


尚榮堂に後継者は今のところおらず「このまま静かに引退するだけかな」と美佐子さん。
「“勿体無い”っておしゃってくださる方もいるんですけど、どうこうできるものでもないですから。でも活版印刷って、今若い方が色々と頑張っておられるから。未来はそんなに悪くなんじゃないかと思ってます」

初めてお店を訪れてから約半年ぶりの今回の訪問、“おばあちゃん猫”であったすみれちゃんは、もうこの世にはいなかった。病を患いながらも、大往生だったそう。
すみれちゃんの、ゆっくりと止まったり進んだりする姿、そして美しいエッジで名を刻んでもらった尚榮堂の名刺に、私はあの時背中を押してもらっていたように思う。
「無事に2回目の名刺を刷ることができました。ありがとう」
お店の一角にあるすみれちゃんの祭壇スペースで静かに報告をした。

取材:2025年12月
文/写真:柳田和佳奈
| 名称 | 尚榮堂 |
|---|---|
| URL | 石川県金沢市高岡町9-24 |
| TEL | 076-221-5589 |













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