母を看取らば~ある認知症介護の記憶 Vol.3
母、タカ子というひと
母は1936年(昭和11年)、山形県酒田市の郊外に生まれた。
江戸時代の北前船の寄港地のひとつとして、ふるくから栄えた港町、酒田。でも母が生まれたのは、その中心街から北東へ8キロほど内陸にはいった、庄内平野に点在する集落のひとつだった。
母は5人きょうだいの第1子で、弟と妹がふたりずついた。ぼくが35歳のころ、母の生家を守る叔父が「これを見ろ」と仏壇からなにやら取りだした。一族の家系を記した過去帳だった。その手のひらに収まる小さな書物が記していたのは、以下のようなことだった。
--時は源平合戦の平安末期。源義家に仕えた近江国出身の首藤某(あるいは須藤某)が、命により留守職(るすしき)という地方行政官として出羽国へ赴く。そこに新田目城(あらためじょう)なる城館を築き定住、以後官職名である留守を姓とする。
時は流れ武士が台頭すると、留守氏も武装化。いわゆる土豪のひとつとして勢力を保ち、戦国時代末期には越後上杉の配下に。関ヶ原の戦いでは西軍として出征するも敗走、新田目城へもどる。
徳川治政の幕藩体制となると、律令時代の官職名を姓に冠しているのは、さすがによろしくない。そこで遠い祖先の近江国にあった所縁の地名から、今井と改姓する--。
それはたしかに母の旧姓ではあるが、母や祖母からは聞いたことのない、まったくあたらしいファミリーヒストリーだった。しかし叔父の歴史話がまったく根拠のないこととも思えない、ある物証があった。母が生まれ育った生家、その屋敷そのもののことだ。
ぼくが生まれたころから、その屋敷はかわらぬ姿を保ちつづけている。その概要は、こんな感じ。
まず6間からなる平屋に、2階建ての洋館が接続されている。「丁」の字の上の一本線が洋館、下につく部分が平屋という構造だ。
問題は洋館にある。そこは1階が郵便局、2階は電話の交換台室として使われ、祖母(祖父はぼくが生まれる直前に他界)が局長として働いていた。つまり民家(母にとっては実家)の一部が郵便局であり、電話局だったのだ。
ふたたび歴史秘話。江戸時代になると各地の城は幕命により廃城とされた。叔父が言うところのご先祖である留守氏の居城、新田目城も同様の処遇を受ける。留守氏は以降、今井と姓をかえて帰農。しかし名主として同地で暮らしつづける。ここまでの話しは郷土研究家によって正史とされている。しかしその後のことは不明。
ただ祖母や母が語っていたのは、第二次世界大戦まで地域の大地主であったが、終戦後の農地解放で多くの土地を接収されたのだと。
それでもなお、地域の有力者でありつづけたのだろう。屋敷の一部が郵便局兼電話局だったのは、集落のひとびとの利便性を考え、私財を投じた結果だった。地域の主婦などを事務員として雇用。電車や車での移動を要する酒田市中心へ行かずして、郵便や電報のサービスを提供できるようにしたのだ。
そんな家で育ったからか、家督を継ぐ長男は東京、母とふたりの妹と次男の4人は京都の大学に進学した。戦前生まれの地方出身者、まして女性の子どもたち全員が大学進学。当時としてはめずらしいはずだ。
とは言っても、母が大学で専攻としたのは家政科。祖父と祖母としては花嫁修業の一環にすぎなかったのだろう。母は卒業までに家庭科の教員免許を取得するが、いちども教壇に立つことはなかった。
子どもとして母の日常をふりかえると、家事全般を苦もなくこなしていたのはもちろん、勤勉家だったと思う。ぼくたちきょうだいのセーターなどの編み物をよくつくってくれたが、芸術としての手芸にも長け、いまでも我が家には額装された母の作品が飾られてある。書道は高位の有段者でもあった。
「大学では英文科に行きたかった」と本人は語っていたが、その思いは毎朝のNHKラジオ英会話受講でつなぎとめていた。ぼくたちきょうだいが進学などで実家を離れると、留学生のホストファミリーを務めていたりもした。「この前はニュージーランドの子がきていてね」などと楽しそうに電話口で話していたりした。
性格は鷹揚、おっとりしている。口数はすくなく、率先して話しを切り出すようなことはまずない。ほぼ聞き役、だけどよく笑う。ときになにがツボなのかわからないタイミングで、涙をながすほど大声で笑うことも。
激高することはなく、叱られた記憶もほとんどない。身長は150センチに満たず、体重は40キロ前半。家族のだれよりも軽量小型、なんだか末っ子のような存在感だった。
ぼくがまだ東京にいたころ、山形へ帰省した際、酒田の実家をなんどか車で訪ねたことがある。そこはすでに母のおとうとが家長となっていたが、玄関をあがるや否や、勝手知ったる我が家とばかりに家事をはじめる。じっとしていられない性格なのだ。
山形から酒田へ車で向かうのに、ぼくは月山を越える山岳ルートを好んだ。母は後部座席を占領、なにかこちらから尋ねない限り、車内の会話はない。
ただひとつ例外があった。峠道のワインディングロードもほぼ終わりに近づき、なだらかな下り坂にさしかかると、フロントガラスの視界に庄内平野が飛び込んでくる。
「ほら見て、鳥海山!」後部座席から身を乗りだし、その雄峰を指さしながら母がうれしそうに声を発する。そしてかならず「小学生のころ登ったよ」と得意げにつづける。
在京生活に別れを告げ、山形へUターンしてからも、酒田へとおなじ道を母と走ったことがある。いつものように母は後部座席で、車中の会話はない。長く折れ曲がった峠道を通過すると、眼前の風景がパッと開ける。視界の奥に鎮座する山容は、ぼくたちが生まれる以前から、そしてこれからもかわりなくありつづける。
眠っているのかな、とバックミラーで母の様子を確認する。虚ろな眼は開いたまま、まっすぐ前を見ている。あの歓声が聞かれることは、もうなかった。
(つづく、次回は11月上旬公開予定)















