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文化と芸術の粋【白鳥山明善寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.3

2019.10.08

文化と芸術の粋【白鳥山明善寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.3

今回お伺いしたのは、浄土真宗本願寺派の名刹「白鳥山明善寺」さん。住職の鈴木幹雄さんと副住職の鈴木寿昭さんに話をお聴きしました。

文化と芸術の粋【白鳥山明善寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.3

副住職 鈴木寿昭さんは奈良のお寺さんで生まれ育ち17年前に山形へやってきて明善寺へ入られました。いわば山形への「Iターン」組。吉野(現 五條市)のお寺のご出身で、15歳で出家得度されています。副住職は、かつて浄土真宗本願寺派の全国青年会長として全国を飛び回り、東北での会議が明善寺で行われたとき、そこで住職の娘さん、現在の奥様との出会いがありました。山形に身を移されてからは、明善寺さんのお寺の空間を解放し、人が集い学ぶ場を提供することに力を注いでらっしゃいました。

そのコンテンツのひとつは「法話」。明善寺さんでは、戦前から毎月19日に全国の浄土真宗の寺院から僧侶をお一人招いて法話会を開催しています。もうひとつのコンテンツは「境内BBQ」。日本バーベキュー協会認定のバーベキュー検定を境内で開催されたりしたそうです。ユニークな取り組みですね。

文化と芸術の粋【白鳥山明善寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.3

さて、明善寺さんといえば「本堂」です。設計は、米沢出身で明治神宮や靖国神社など寺社仏閣に代表的設計作品を多く残す伊東忠太博士。明善寺本堂は築地本願寺のプロトタイプとして知られ、多くの建築関係者が見学に訪れる、その界隈では有名な存在となっています。

伊東忠太博士は、大正14年にひとまず本堂と書院の図面を書き上げ、そこからさらに手を加えて、昭和2年に最終設計図を完成させます。左右に鐘楼と鼓楼を配置する木造の造りは、鉄筋コンクリートの築地本願寺が湛えるオリエンタルな表情とは対象的です。

ちなみに伊東忠太という大人物がなぜこの本堂を設計するに至ったのか。その理由は、計画当時に檀家総代であった村井三雄蔵氏が伊東忠太の実の弟さんだったから。このつながりによって、博士への設計依頼が受け入れられたそうです。

文化と芸術の粋【白鳥山明善寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.3

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明善寺本堂は昭和5年着工、昭和9年完成。山形大火(明治27年)でかつての本堂が焼失してそれから紆余曲折があり、構想から完成まで40年かかっています。

当時80戸に満たない門信徒の数だったそうですから、そのひとりひとりから相当なリソースが注がれたことは想像に難くありません。檀家さんはじめ周縁から、再興のためにあらたに物心が注がれ、増幅したり形を変えたりしながら、ずっと守られてきた。そんな文化の粋があつまったお寺なのでしょう。

文化と芸術の粋【白鳥山明善寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.3

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それを物語るエピソードがひとつあります。濱田庄司という陶芸家をご存知でしょうか? いわゆる「人間国宝」第1号。用の美を貫く「民藝運動」を柳宗悦と共に提唱し実践した陶芸家で、彼がインスピレーションを受け拠点とした益子の焼き物が持つ肉厚で素朴な風合いは、濱田庄司により日用の器から民藝陶器へと昇華されていきました。益子焼がもたらした変化は、全国各地にある日用の器をつくる窯の在り方にも変化を与えたわけで、身近なところでは山形の平清水焼や新庄の東山焼などもその一つ。そんな濱田庄司と縁の深い(その理由については省略)明善寺には氏の陶芸作品が数多く保管されているのです。

ということで、これでもまだ書き足りないほどの魅力溢れる明善寺さん。
お寺を見てみたい方、ぜひ鈴木住職、副住職のもとに訪れてみたらいかがでしょうか。今回書ききれなかった興味深いはなしを直接お話しいただけるかもしれません。

お寺とお墓の山形散歩 アーカイブ

この記事は、終活Webサイト「ハカライフ」のコンテンツ「寺、マイル」をもとに制作されています。
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