real local 山形 » 政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2【地域情報】

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2

山形における長源寺のはじまりは江戸初期の1622年のこと。最上家の改易により、福島は磐城より鳥居忠政公が山形へ移封となり、そのときに長源寺も一緒に山形へ移ってきました。以来今日に至るまで、山形市の中心ともいうべき七日町の現在の場所に長源寺はありつづけています。

現住職の葦原正憲さんはそこから31代目となる第31世住職です。今から50年近くも前に、27歳の若さで住職となり、山形青年会議所のメンバーとして馬見ヶ崎川の河原を会場とした第一回山形大花火大会で実行委員長を務めるなど、まちなかにある寺として積極的に地域づくりに携わり、力強い昭和の住職像を創り上げてこられました。

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2
葦原住職が40歳を迎えるまえの頃、1980年代初頭のことですが、長源寺の境内に古くより鎮座する鳥居忠政公の墓碑調査に乗り出したことがあるそうです。鳥居公の墓碑はそれを囲むように建立される檀家さんの墓地より一段高く盛られ、ひときわ高くそびえる塔状の石碑です。

ここにはなにかが埋蔵されているのではないか? 鳥居家代々の墓所は壬生にあるが、ここに分骨されているのではないか? あるいは他にもなにか….? そんな積年の疑問を解決しようと、地元工務店の協力のもと、発掘調査をスタート。かつて世を騒がせた徳川埋蔵金発掘騒動を10年も先駆ける試みで、地元の新聞テレビ各社を巻き込み、山形市民の耳目を集めます。そして、その結果は、なんと….。なんにも出てこなかったそうです(笑)。外野は面白がって見ていたようですが、当時のことを振り返り語る葦原住職は、本当に残念なご様子でした。

さて、日本のお寺の変わり目がやってきたのは明治の初頭ですが、長源寺もまた然りでした。幕末の山形藩筆頭家老・水野三郎右衛門元宣は、難局のなか藩主不在で実質の藩政を取り仕切りますが、最終的には幕府につき、新政府に抗します。幕府が敗れると、戦後処理に奔走し山形の民を戦禍から守りますが、最期は自ら反乱の首謀者として首を差し出し、明治2年5月20日、長源寺の境内で処刑されてしまいます。26才という若さでした。現在の最上記念館あたりにあった水野邸から城門を出て、長源寺までひったてられて処刑されたのです。

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2

葦原住職曰く、「境内までの道中多くの山形領民が感謝と無念がないまぜになった涙を密かに流した」と伝え聞くそうです。本堂の前には「水野三郎右衛門終焉の地」の石標があります。あまり知られていない話ですが、実際に三郎右衛門が処刑された終焉の場所はかつての本堂前、現在は料亭四山楼となっている場所なのだそうです。

新しい時代を迎え、「土木県令」の通称で有名な初代山形県知事・三島通庸は、山形に近代的商店街を作るため、道路を切りひらきます。そこで、城下の一等地にあった長源寺境内が解放されることとなりました。これが現在のシネマストリート「旭銀座」、そして「長源寺通り飲食街」となったのです。

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2
解放される以前の長源寺の敷地について回想してみますと、「元三日町」と通称される通りにかつての長源寺山門があり、そこからずっと北へ料亭四山楼の前あたりまで続く道路が参道でありました。杉林に囲まれた参道を抜けると、現在の長源寺通りの道路上を跨ぐように南向きに本堂が鎮座していたそうです。ちなみに、通称「元三日町」はその名の通り「かつての三日町」でありました。長源寺が現在の地へ移ってきたことで同地にあった光禅寺もろとも門前の商人も町の名前もごっそりいっしょに現在の「三日町」に移ったのだそうです。

長源寺と七日町のつながり
霞城公園が山形城であった藩政の時代から明治の新政府を経て今に至るまで、長源寺というお寺は政治と商業の中心の近くにあり続けました。寺の敷地が広大であった江戸初期にはさぞかし多くの檀家さんがあったと想像したくなりますが、実際は藩主の鳥居公の家臣を檀家に持つのみで、寺は城からの禄高で保たれていたのだそうです。幕末から明治にかけての第28世住職の道円禅師(村山市出身)のころでも、檀家さんの数は現在の1/4ほどだったという話です。
 
住職が妻帯つまり結婚できるようになったのもこのころで、同時に僧侶も苗字を持つようになりました。長源寺は今に続く「葦原」の姓を名乗るようになりました。葦原住職は「苗字の由来についてはわからない」とのことですが、失礼ながら勝手な想像をしてしまいます。ここからあたらしい長源寺がはじまるということで、記紀に出てくる日本創世の地「葦原中国」からひっぱってきたのではないか? あるいは、かつて文翔館前の通りを馬見ヶ崎川が走っていたことから、長源寺本堂の裏あたりに葦が茂っていたのでは?などなど。

そのあたりの記録が残っていない理由の一つは、明治44年の「山形北部大火」です。この大火により長源寺の本堂も全焼し、多くの文献が失われました。室町時代からある本尊の釈迦如来像が唯一難を逃れ、現在も本堂に鎮座しています。現在の本堂は大正11年着工13年落慶。清水建設による施工で、鉄筋コンクリートの本堂は当時全国でも珍しかったそうです。現在も5月11日にお祭りが行われている観音堂は、昭和5年に建てられました。

この本堂と観音堂の建設は、現住職の祖父である第29世住職の時代に行われたものでした。孫を孫扱いしない非常に厳しい祖父だったと葦原住職は回想します。子供の頃は、父が住職を務めていた谷地の慈眼寺から長源寺の祖父のところまで早朝自転車でお使い。その成果か、体力抜群で運動神経が良く、駒澤大学野球部出身の父の影響もあり、野球少年でありました。その後、駒澤大学の仏教学部へ進学しますが、当時は仏教学部は体育会活動ができず本格的な野球は断念したそうです。

大学卒業後、葦原住職は24歳で永平寺での修行から戻り、谷地にある慈眼寺の住職に就任。その後、父である長源寺30世住職が50代の若さで急逝し、わずか3年で歴史ある名刹である長源寺の住職に就任した葦原さんはプレッシャーも相当大きかったそうですが、その後の活躍は冒頭でお話しした通りです。

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2

長源寺さんには私自身よくお邪魔しますが来客の絶えないとても居心地の良いお寺です。長源寺通りをはさんだ向かい、花寿司さんの脇「水野三郎右衛門元宣氏墓道」の石標から入ったところに檀家さんの墓地があります。長源寺通りの飲食店、旭銀座の商店、マンション、それらの裏手に囲まれ、ひっそりと在る墓地は格別なものです。

山形の歴史に欠かすことのできない鳥居忠政公そして水野三郎右衛門さんのお墓参りに、山形市民であればぜひ一度訪れて欲しいです。

お寺とお墓の山形散歩 アーカイブ

この記事は、終活Webサイト「ハカライフ」のコンテンツ「寺、マイル」をもとに制作されています。こちらもぜひご覧ください。

政治と商業のまんなかに【長源寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.2