real local 山形母を看取らば~ある認知症介護の記憶 | reallocal|移住やローカルまちづくりに興味がある人のためのサイト【地域情報】

母を看取らば~ある認知症介護の記憶

地域情報
2026.08.06

--大学進学を機に上京する際、もう山形で暮らすことはあるまい、そうこころに決めていた。それから25年後、事態は一変。ふたたび山形で生きることになった。独居生活をつづけていた母が認知症をわずらったのだ。

はじめに

 フランスはパリのランドマーク、エッフェル塔。その近くに、とある介護施設がある。築百年を超える建物が軒並みの彼の地にあって、ここも長い歳月の風雪に耐えてきたことは容易に想像できる。中庭では樹高15メートルは優にあるだろうポプラをはじめとした庭木が勢いよく枝葉を広げている。その根元には雑草がカーペットのように生え、素足で歩いても気持ちよさそうだ。

 これは現在公開中の映画『急に具合が悪くなる』の主要な舞台となるロケ地のこと。映画では「自由の庭」と名前を変え、認知症患者をはじめとする高齢者たちと、その介護に務めるスタッフたちの日常が描かれている。

 冒頭に記したとおり、ここはエッフェルに近いパリ市街地の中心にある。もし旅人が界隈を散策しても、ここを介護施設と見定めることはできないのでないか? それほど街並みに溶け込んでいる。
 しかしここはかつて精神科病院だったのだという。映画『急に具合が悪くなる』でも、おなじことが語られている。

 ぼくの母は認知症をわずらってからデイサービス、小規模多機能住宅、精神科病院へと症状の進行にあわせて3つの施設でお世話になった。最後の精神科病院への入院は認知症末期にあらわれる経口摂食の拒否、栄養などを点滴で補給せざるを得なくなったからだ。それは介護施設が提供できるケアの領域を超えている。
 
 ふたたび映画『急に具合が悪くなる』について。物語のなかで長塚京三さんが舞台俳優として登場、パリ市内に実在する「テアトル13」という劇場でひとり芝居を上演する。その演劇はイタリアで1970年代に興った精神科病院廃絶運動、その端緒をひらいた精神科医の思想と活動を追った物語だった。
 そうか、イタリアでは50年近く前には精神科病院が廃止されているのか。『急に具合が悪くなる』のロケ地も以前は精神科病院、こんにちでは介護施設として使われているのは、このイタリア発の思想が伝わったことと想像できる。

 またこの映画には重度の自閉スペクトラム症(ASD)をわずらう青年も登場、黒崎煌代さんが熱演している。
 認知症、精神病、ASD…こうした症状のひとたちといかに向きあうか? それがつまり映画『急に具合が悪くなる』の物語の主軸である。
 自分自身が認知症の母とすごした時間をもつ者として、この映画は他人事ではなかった。でも映画がもつ芸術性、主演のふたりの女優が繰り広げる会話の密度に圧倒され、簡単には消化できずにいた。

 リアルローカル山形の那須ミノルさんに会ったのは、まさに映画を観た翌日のことだった。その那須さんから「なにか書いてみないか?」と誘いを受けた。
 東京での社会人生活約20年、ぼくは編集者という立場で小説家、著述家、研究者さまざまなかたがたに執筆を依頼した。自分自身の著名記事も少なからずある。その経験のなかで、ぼくが自分自身のことを文字として残したことは一度もない。それほどつまらないものはないし、まったく価値がないと決めつけていたからだ。
 しかし那須さんは母の介護のことを書いてみては、と勧めてくる。「そんな個人的なことを!」とためらいがあった。でも映画『急に具合が悪くなる』の体験を経て、薄れつつある母との記憶がふたたび色彩を帯びてきた。
 いま、こうした誘いを受けること自体がなにかしら意味のあることのかもしれない。もし神さまがいるとしたら、こうした偶然というかたちをかりて、存在をおしめしになるのかもしれない…。

 これから語られるのは、ぼく自身の個人的な体験にすぎない。母とのあいだにあったことをできるだけ主観を排して、出来事の陳述に努めたいと思う。それが読んでくださるみなさまにどのような意味があるのか、正直まったくわからない。

 ただ『急に具合が悪くなる』を観終えて、認知症介護について得たあらたな知見、その背後にある人間存在の哲学は、ぼく自身の経験を相対化させる重厚なテクストになった。
 この先もこの映画のことを折に触れながら、筆を進めてみたい。
(つづく、次回は9月下旬に公開予定)

映画『急に具合が悪くなる』
がんを患う哲学者・宮野真生子さんと、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者・磯野真穂さんが交わした20通の往復書簡を一冊にした書籍『急に具合が悪くなる』(晶文社刊)を映像化。
メガホンをとるのは『ドライブ・マイ・カー』(アカデミー賞国際長編映画賞受賞)、『偶然と想像』などを手がけた濱口竜介監督。
パリ市内の介護施設で施設長を務めるマリー=ルーと舞台演出家・脚本家の真理が出会い、濃密な語らいの末に社会構造の問題点、希望を見出していく。
主演のヴィルジニー・エフィラさんと岡本多緒さんのふたりは本作で第79回カンヌ国際映画祭最優秀女優賞を受賞。
https://www.bitters.co.jp/soudain/
https://www.shobunsha.co.jp/?p=5493