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バウハウスの血を引く初期モダニズム建築「旧梅月堂」/建築で巡るやまがた(6)

2019年は、ヴァイマール共和国時代のドイツで「バウハウス」が創設されてから、ちょうど100周年の記念すべき年にあたります。

「バウハウス」とは、世界的にも多大な影響を及ぼした先駆的な芸術・工芸・建築の学校です。そのバウハウスの機能主義的なデザインの流れを組む建物が、現在の山形市中心街に残ります。七日町通りとシネマ通りが交わる十字路に建つ「YT梅月館」ビルがそれです。

バウハウスの血を引く初期モダニズム建築「旧梅月堂」/建築で巡るやまがた(6)
現代では当たり前となった白い箱と大きなガラス窓のデザインは80年以上前のもの

元々地元の菓子店「梅月堂」の七日町店として、道路拡幅を機に新たに建て替えられたもの。

3回で取り上げた「山形一小旧校舎」完成から9年後の1936(昭和11)年の竣工・オープンということで、パッと見はわかりませんが実は83年もの歴史を刻んでいるから驚きです。

DOCOMOMO Japanが選定する「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」の一つにもなっています。建物は道路に面したメインの鉄筋コンクリート造3階建てのほか、かつては奥の南西部分に3階建ての木造建物が接続してあったもののRC4階建てに改築され、その部分は現在ビジネスホテルとして使われています。

バウハウスの血を引く初期モダニズム建築「旧梅月堂」/建築で巡るやまがた(6)
通りから見えない奥の建物は改築され、ビジネスホテルが入る

この現代にも通ずる白と直角のデザインは、1920年代に盛んだった表現派に代わり1930年代に広がりはじめた初期モダニズムの中でも特に影響力のあった「バウハウス派」と呼ばれるもの。

豆腐を切ったような白い箱と大きなガラス窓といったデザインは、国際建築様式(インターナショナルスタイル)とも呼ばれ、無国籍性ゆえに世界中に広まる一方で、画一的な街並みを生む要因にもなっています。

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建設当時から残る屋上庭園のパーゴラが通りからも見える

完成当時に比べて外観は大きく変わっていませんが、むかし改装工事がおこなわれたときに23階のスチール枠でつくられたガラスのカーテンウォールがアルミサッシになったり1階正面の軒下ショーケースだった部分に壁が立ち室内化したりなどいくつか変更点は見られます。

バウハウス派の流れを汲む建物にはなっていますが、1927年に建築家ル・コルビュジェが発表した「近代建築の5原則」である「自由な平面」「横長窓」「自由なファサード」「屋上庭園」「ピロティ」の実現をそこに見ることもできそうです。(実際にピロティはないけれど、正面のキャンティレバー持ち出し部分がそのようにも見えます)

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今は階ごとに区切られて見えるが、建設当時は2,3階まとめて一つの巨大なガラス面が見えていた

正面の建物平面はおよそ台形でどの階も比較的単純なプランであり、建設当時は1階で和洋菓子・パン・名産品の販売、2階で喫茶・洋食のレストラン、3階を会食のできるホールとしていたようです。

1997(平成9)年に梅月堂が倒産し新たなオーナーになってからはテナントビルとして使われており、現在1階には居酒屋、23階には運営会社の事務所や倉庫などに利用されているようです。

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1階には大手カフェチェーン店が入っていたことも

内装については、テナントビルとなってから各階ともスケルトン状態もしくはテナントごとの内装が施されているため梅月堂当時の仕上げはほとんど残っていないと思われます。

ただ特徴的な大開口部や窓の配置は大きく変わっていないため、室内から通りを見下ろした景観は今も体験できると想像できます。

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2階へ上がる東側の階段は現在は使われていない

竣工した1930年代というと、先述したル・コルビュジェの代表作「サヴォア邸」が1931年の完成、巨匠フランク・L・ライトの代表作「落水荘」が1936年の完成ということで、世界でも代表的なモダンデザインが誕生していた頃になります。

まさにその時代に、世界最先端のデザインによる建築が日本の一地方都市につくられ、今も残され使われているのはある意味奇跡のようにも感じます。

バウハウスの血を引く初期モダニズム建築「旧梅月堂」/建築で巡るやまがた(6)
北側の外壁に、日本大学名誉教授で近代建築史が専門の近江栄氏の解説銘板が残る

この旧梅月堂を設計したのは、東京出身の建築家・山口文象です。

元は浅草の大工の家に生まれ育ち、清水組の職人としてキャリアをスタートさせるもその後建築家を志し、逓信省営繕課、内務省東京復興局橋梁課、竹中工務店設計部、片岡石本建築事務所と設計のキャリアを積み重ねる一方で、「分離派建築会」への参加や「創宇社建築会」の結成など建築にかかわる社会活動にも大きくかかわっていました。

山口は黒部第二発電所の設計に関する調査の目的で1929年に渡欧すると、バウハウスの初代校長を務めた建築家・ヴァルター・グロピウスの事務所に在籍、1932年にグロピウスが国外退去を命じられた際に山口も一緒にドイツを抜け出し、日本に帰国しています。

1933(昭和8)年に山口文象建築事務所を立ち上げ、若くして日本電力黒部第二発電所などバウハウス派の代表作を手がけていきます。旧梅月堂もまさにその頃、山口が34歳のときの実作です。

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山口の創設したRIAが手がけた再開発ビル「aZ七日町」。1~3階に店舗、4~8階に市中央公民館が入居

その後戦争を挟むものの、1953(昭和28)年に自身の事務所をRIA建築綜合研究所に改称し、組織系設計事務所として大きく育て上げ、大規模建築物や再開発を得意とする株式会社アール・アイ・エー(以下RIA)となって現在まで引き継がれています。

このRIAと山形の関係は浅からず、1980(昭和55)年の山形市本町七日町諏訪町地区再開発調査(地域環境計画研究室と協働)をはじめ、1987(昭和62)年のaZ七日町、2003(平成15)年のE-NAS、そして2021(令和3)年完成予定のセブンプラザ跡地の再開発といった具合に、山形市中心街の再開発にはRIAの存在を都度確認することができます。

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ほっとなる広場を囲むE-NASはRIAによる南欧風のデザイン

旧梅月堂オープン時の写真を見ると、その南隣の建物(旧吉野屋)も同じ頃に建てられたものだとわかります。それは木造3階建てのいわゆる「看板建築」と呼ばれるもので、アール・デコや表現主義がかった要素を感じます。

当時そうした看板建築や店蔵などが大半を占めていた街並みの中で、初期モダニズムを象徴する白と直角のデザインは、あまりにも斬新で光り輝いていたことが想像に難くありません。

山形の一流の菓子店・レストランとして繁盛した梅月堂については、昭和30年代~40年代初めにかけて、お店の2階で食事するのが山形市民の一つの憧れであったといわれています。

時は過ぎ、梅月堂はいなくなり、モダニズムが普及した箱型の建物が周囲に建ち並び、すっかり旧梅月堂の建物の存在感は失われつつありますが、今もテナントが入居し、一部はホテルとして稼働しているなど、歴史的建造物の保存に不可欠な経済的自立もきちんとされているようにも見えます。

この先も建ち続け、もしまた改装のタイミングが訪れた際(築100周年?)には、サッシ周りや正面入口周りを完成当時に近いものに再現されることを願っています。

バウハウスの血を引く初期モダニズム建築「旧梅月堂」/建築で巡るやまがた(6)
木造3階建ての看板建築~初期モダニズム~現代建築の時代の流れがわかる街角といえる

(参考文献)
・日本の近代建築(下)大正・昭和篇 藤森照信著
・現代日本建築家全集11 栗田勇監修 三一書房発行
・モダニスト再考[日本編] 建築の20世紀はここから始まった 彰国社編・発行
pen No.471 CCCメディアハウス発行
・ウェブサイトまちもり通信 まちもり散人制作

「建築で巡るやまがた」アーカイブはこちら
建築家・井上貴詞インタビュー記事はこちら

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