【名古屋市中区】廃業危機からの劇的な復活 『元祖 鯱もなか本店』起死回生の物語
今から100年あまり前の大正10年(1921年)。名古屋城のシンボル〝金のしゃちほこ〟をかたどったユニークな和菓子「鯱もなか」が誕生しました。以来100年以上の長きにわたって愛されてきた地元の銘菓も時代の変化の中で少しずつ売り上げが減り、ついに老舗の看板を下ろす寸前に。しかし、そこから一気に逆転。売り上げはいまやピーク時をしのぐまでになりました。
尾張・名古屋の和菓子文化を広めた
明治40年創業の老舗
古くから抹茶文化が根付く尾張・名古屋では、明治の頃まで和菓子といえば主に茶席に用いられる干菓子や上生菓子のことを指し、庶民が日常に楽しんだりお供えものに使われるのは餅などの素朴なものがほとんどだったそう。そんな時代に名古屋に完成したばかりの劇場「御園座」(名古屋市中区)のすぐ西側に店を構え、観劇客らのためのお菓子を販売していた和菓子店『ますや菓子舗』の初代主人が、「より名古屋らしいお土産を」と考え出したのが「鯱もなか」でした。

名古屋城にもほど近く、連日のように観光や観劇の客で賑わっていたこの場所で売り出された「鯱もなか」は、大衆の間の新しい習慣であったお土産文化の広がりとともに大評判に。やがて店の看板商品となり、屋号を『元祖 鯱もなか本店』と改称するほど人気を博しました。
しかし時勢の波には逆らえず、ピークだった20年前を境に売り上げは少しずつ下降線を辿り始めます。そこへ追い打ちをかけるかのように襲った5年前のコロナ禍。多くの人に長く愛されてきた老舗『元祖 鯱もなか本店』は、ついに廃業を考えるほど厳しい状況に追い込まれ、職人さんや従業員をすべて解雇。店の命でもある製造機械も売り払ってしまったのです。
まさに背水の陣。しかし、そこから一転、『元祖 鯱もなか本店』は、その後なんとわずか3年で見事にV字回復を果たします。名古屋名物「鯱もなか」のファンは全国に広がり、今年の売り上げは、なんとピーク時を上回り過去最高に。そんな奇跡のような起死回生のドラマに多くのメディアも大注目。先ごろその実績をまとめた書籍も出版され話題となっています。
復活劇の立役者は、2021年に父親である三代目から店を継いだ長女の古田花恵さんと、その夫で専務を勤める憲司さん。廃業寸前という事態に直面しながら、代々続いた老舗の看板を守るべく二人がとった戦略とは。さらにこれからの展望などについて古田憲司さんにお聞きしました。
創業明治40年の和菓子店
初代が考案した「鯱もなか」が名古屋のまちの名物に
――もなかといえば和菓子の中でも定番中の定番。誰もが知っているシンプルなお菓子ですが、鯱ほこをかたどっているのでひと目で名古屋土産とわかりますね。
大正時代から100年以上作り続けていますが、発売当時はとても斬新だったのでしょうね。ものすごい人気でめちゃくちゃ売れたと聞いています。
――創業時、お店はたくさんの人で賑わう御園座の近くにあったそうですが、現在の場所に移ったのはいつですか?
1945年の名古屋大空襲で名古屋城が焼け落ちて、御園座もその周辺の商店や家々もみんな焼失してしまったんです。戦後に現在の場所に移ってお店を再開しました。

新しい時代に向けて洋菓子にも挑戦
――そこから80年。本当に長く愛されてきたんですね。
こちらに移転した時には店主も二代目に代わっていましたが、この二代目が破天荒な性格で、お金の使い方もけっこう豪快だったようです。戦争を体験して死生観とか人生観にも影響を受けたのかもしれませんが、そのため当時は店の経営も大変だったのでしょうね。そんな父親の姿を見て育ったせいか、息子である三代目(奥さんの父)は「自分はもっと堅実に店を継ごう」と思って、自分なりに当時のお菓子業界のトレンドをリサーチしたりして、いろいろと工夫や努力をしたようです。
――例えば?
昭和の半ばから昭和の終わりにかけて洋菓子店がどんどん増えていたので、「これからの時代はケーキだ」と。そこで京都にあった老舗洋菓子店に修行に出ました。うちはもともと和菓子店なので和菓子の職人さんはいますが、洋菓子部門はまったくの新規事業。自分で一から技術を学ぼうと考えたのでしょうね。修行後に洋菓子の製造販売をスタートすると、これもなかなか好評で繁盛したそうです。

時代の変化の中で徐々に売り上げにも翳りが…
――その間にも「鯱もなか」は変わらず人気を保ってきたのですね。
平成元年に開催された「名古屋デザイン博覧会」の年に売り上げがもっとも伸びて、2005年の「愛・地球博」の時がピークでした。この頃に「金シャチまんじゅう」という新商品を売り出してこれも大ヒット。しかし主にお土産としての需要に頼ってきた商品なので、大きなイベントがあるときはいいんですが、社会の情勢に売り上げが左右されやすいんです。万博のピーク時から20年が経ち、材料費の高騰などさまざまな要因が重なって売り上げは伸び悩むようになっていきました。
――それでも値上げせず?
そうですね。父(三代目)は子供たちに店を継がそうとは考えず自分の代で畳むつもりだったので、物価が高騰しても商品の値段を上げなかったんです。当然、利益は上がらず売り上げは下降線。若くて元気があるうちは新商品なども次々に考えたりできたんですが、年齢とともにそういう気力もなくなって、10年前、65歳になった頃からは毎年のように「今年いっぱいかな」と弱気なことを言うようになっていました。
――その頃はまだ古田さんも奥さんもお店を継ぐことは考えていなかったのですか。
考えてなかったですね。結婚した当時、僕は違う仕事をしていましたし妻は専業主婦。妻の実家の家業を継ぐとはまったく思っていませんでした。でも店が厳しい状況になってきて、このまま廃業するか、商品ブランドだけ残して誰かに譲渡するかなど、いくつか選択肢を考えながら家族で話し合っていたんです。そんな状況の中、お父さんは金鯱まんじゅうの機械を売ってしまい、従業員さんたちにも全員辞めてもらってついに家族だけになってしまいました。

廃業危機からの復活
きっかけはコロナ禍の閉塞感
――お父さんは少しずつお店を畳む準備を始められたのですね。その後、どんな経緯でお二人が継承することになったのですか。
特にきっかけがあったわけでなく、コロナ禍の中で自然にそういう流れになった感じですね。外に出られず人にも会えなくて、社会全体がこの世の終わりみたいな雰囲気でしたよね。その中で、何かしないと未来まで生き残れないんじゃないかっていう気がしていましたし、新しいことに挑戦しようという気運が起き始めていたように思います。
うちのような店でも何かできることがあるはずと、とりあえずコロナ関連の補助金などを活用してECサイトを立ち上げ、あらゆるSNSを使って発信を始めてみることにしたんです。店頭での販売や配達は細々と続けていたので家族4人で切り盛りするしかないし、妻が仕方なく店先に立って手伝っていました。そんなふうに僕らはなんとなく巻き込まれたような感じでしたが、2021年には正式に妻が四代目を継ぐことに。
いま振り返るとコロナ禍は大きな打撃でもあったけど、それがなければ新しいことにも挑戦していなかったし、あのまま店を閉じる選択をしていたかもしれません。
――奥さんとしては直接お客様と接することでお店への思いに変化があったのでは?
それはあったと思います。店に来てくださるお客様から直接「おいしい」と言っていただくことが大きな励みになりましたし、同時にSNSでも発信するようになっていたので、「頑張って続けてください」とか「応援しています!」という声がダイレクトに届くようになりました。
誰のためにお菓子を作り、誰が喜んでくださっているのかということにも気付くことができ、お店を守りたいというモチベーションになりましたね。

SNSをフル活用し、新しい客層へ向けてアピール
――SNSを使った発信やオンラインでの新しい仕組みづくりなど、戦略的なアイデアはどなたを中心に進められたのですか?
業種は違いますが、前職での経験を生かして僕が大まかな設計をしました。それと、その頃たまたまツイッターで知り合ったご近所の主婦の方がSNSをめちゃめちゃ上手に使いこなせる人だったので、「是非、うちに来て手伝って!」と誘ったりして…(笑)。
――SNSをきっかけにそんな出会いもあったとは(笑)。インスタグラムやECサイトを導入するようになって、客層やお客様の反応に変化はありましたか?
お客様の年齢層がだいぶ若くなりましたね。それまでは50代~70代ぐらいがメインだったんですが、今は30代~50代が中心になった印象です。店に直接買いに来てくださるのはご近所の方が圧倒的でしたが、県外などわざわざ遠方から来てくださる方も増えました。
あと、すごく影響力があるのは〝推し活〟。女性アイドルがおすすめしてくださるので、そのファンの男性がたくさん来てくださって、その方達がまたSNSで発信してくれるのでどんどん拡散して大きな宣伝効果につながっています。
――SNSの力は大きいですね。
最初、ヤフーニュースに取り上げられたのをきっかけに多くの方に知っていただくことができ、さらにそこから異業種の方からコラボのオファーにもつながっていきました。
ありがたいことに取材も後を絶たない状況が続いていますし、これまでとは違う属性、例えば著名人のファンやアニメやゲーム好きの方などにもファン層を広げることができました。コロナ禍というタイミングでSNSマーケティングが成功したことと、そのメディア戦略によって順調に効果を上げることができたのが良かったと思います。
新しい時代の営業戦略と
ずっと変わらず守り続けたいもの
――いっときは廃業さえ覚悟した先代のお父さんは、どのようにおっしゃっていますか?
売り方や宣伝の方法については僕らに任せてくれていて、新しい時代に合ったやり方を信頼してくれていますのでそこに関しては何も言いません。新商品のアイデアなどもすごく柔軟で積極的に考えてくれます。
ただ、お菓子作りや技術的なことについては今でも頑固なこだわりを持っています。常連のお客様の多くはやはり先代の味についてくださっているので、僕らもそこは変えて欲しくないと思っています。

シンプルだからこそ違いが出る
伝統の製法への頑固なこだわり
――もなかって伝統的で素朴なお菓子ですが、「鯱もなか」は他とはここが違う!と自慢できるのはどんなところですか?
シンプルだからこそ違いが出るのは素材そのものの組み合わせと分量、つまり配合だと思います。おそらくどこのお店でも原材料はほぼ同じですが、加える水の加減や焼き具合によって個性や違いが出るんです。
もなかを食べたときに皮が口の中にくっつくのが苦手と言う方もいますよね。でもうちの「鯱もなか」はくっつきにくい。そこも人気なんです。
――確かにもなかって口にくっつきますね。そういうものだと思って食べてました(笑)
丸や四角ではなく鯱の形をしていることと、皮の表面に鱗の模様の凹凸があるので口当たりが良くサクッと食べやすいんです。
――確かに。封を開けると香ばしい香りが立ち上がって、口当たりもサクサク。中のあんこも程よい甘さで本当に美味しい!

これまでに少しずつ改良も加えてきましたが、現在のレシピは先代の残したものを継承して大きく味を変えていません。お菓子は何より味が大事ですからそこは絶対に守り続けなければいけないところだと思っています。

ファンの応援を励みに
老舗の看板を守り抜くために
――とはいえ、いまや原材料費やさまざまなものの値段が高騰していますし、後継者問題なども深刻です。お菓子業界に限らずどんな業種においても厳しい状況が続いているのも現実です。
そうですね。ある時、お菓子の材料を扱う問屋さんの方に言われた言葉がまさにその状況を象徴しているなと思ったことがありました。他のお菓子屋さんに品物を納めに行っても、どこもみんな暗い話ばかりだと。
そんな中でうちのように明るい話題があるのはありがたいと言ってくださって嬉しかった。でも、それは決してうちだけがそうできたのではなく、捉え方次第で状況を変えていくことはできるのではないかと思うんです。
――厳しい現状もポジティブに変えていけるということですね。
例えば、和菓子屋さんの多くが何十年と続く老舗です。ということはすでにそれだけでブランド力を備えているとも言えます。その〝強み〟をいかに使っていくか、前向きに捉えて諦めずにできることを考えればきっとできることがあるはず。
業界全体が悲観的な空気ではすごく残念だし、それぞれのお店が自分たちの〝強み〟に目を向けていけたらいいですよね。
大事なのは諦めずに「やり抜くこと」だと思います。
――古田さんの言葉にはすごく勇気をもらえます。『元祖 鯱もなか本店』としてもまだまだ挑戦は続くと思いますが、今後はどんな展開を考えていらっしゃいますか?
家族経営でやってきましたが、ありがたいことに忙しくなるにつれて人手が足りなくなり、この5年で従業員は10名ほどに増えました。今後さらに規模を拡大していきたいと思います。
具体的には、製造工程も見直して自動化できるものはよりシステマチックにして、逆に職人技を生かしたものはさらにそこに集中できるような環境づくりをしていけたらと。従業員の仕事や役割を明確化して組織として体制を整えつつ、待遇の向上も目指したいです。
従業員さんたちがやりがいを持って楽しく働けることが何より大事です。未来を描ける環境で働く人の意識が変われば、店の未来もきっと明るい。そういう気持ちで今後も前向きに取り組んでいきたいです。

名称 | 元祖 鯱もなか本店 |
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URL | HP: https://shachimonaka.com |
住所 | 名古屋市中区松原2-4-8 |
TEL | 052-321-1173 |
営業時間 | 平日・土曜 9:00~17:30 |